ひっかかりごと。

日常生活で引っかかったことを綴ります。

女の子は赤じゃないとだめなの?ランドセルの呪縛

この国にも日本の本屋さんがあって、まるで「ここは日本でござい」って感じでお馴染みの文庫本や雑誌、漫画なんかを売っている。

本だけじゃなく文房具なんかも売っているんだけど、なんとランドセルも扱っている。ランドセルの広告を見ていたら、ふと子供時代のことを思い出した。

私の使っていたランドセルは、最もありふれた赤いランドセルだった。

特に、赤は私の好きな色ではなかった。

私はその当時水色が一番好きで、だから水色のランドセルが欲しかったのだ。

だけどうちの親は水色のランドセルを買ってはくれなかった。

「赤以外だといじめられるかもしれないから」というのが買ってくれなかった理由である。

今思うと、かなり馬鹿馬鹿しい理由だなと思う。

「女の子なのに水色なんておかしい」って言われるかもしれないよ。

親のそんな言葉を覚えている。

子供がいじめられないように心配していたからこその発言なんだろうけど、そういうマイナスな動機で物事を決めるのが、今の私は大嫌いである。

自分が好きだから、可愛い、かっこいいと思うから。そういう、きらきらした理由で物事を選びたい。

ランドセルの色が違うくらいでいじめる方が悪いのに、どうしてこっちが相手に迎合しないといけないんだろう。

人と違うことがそんなにいけないことなの?

そうじゃないって教えてあげるのが教育の務めなんじゃないの?

でも残念ながら、日本では未だに画一的であるべき、人と違うべからずという風潮が蔓延っている。

そしてむしろ、教育の現場で進んでその考えを子供たちに押し付けているように思う。

制服は可愛いと思うけど、個人を「女子学生」「男子学生」という記号に還元してしまう。

私は、好きでもない赤のランドセルを6年間背負うよりも、人に何と言われても自分の好きな色のランドセルを背負うべきだったかもしれない。

無責任な周りの意見に流されるよりも、自分の意見を一番大切にすべきだったかもしれない。

赤や黒なんかの「デフォルト」以外のランドセルを背負っている子は、私にとって眩しい存在だ。彼女たちに会うと「いいぞ、その調子だ」と心のなかで応援したくなる。

 

私が日本に「帰りたくなる」理由

最近、私が日本に帰りたいと思う気持ちは、ちょうど日本で暮らしていた頃「フランスに行きたい」と思っていた気持ちとほとんど同じだと気がついた。要は、「今ここでないどこかに行きたいと思う」気持ちなのだ。日本に憧れる外国人と同じ心情なのである。フランスは私にとって日常なので、今は非日常の日本という場所に憧れている。

日本にいた頃はフランス関連の本を読んだりアートに浸ったりしていたのだが、今は専ら日本やアジアの文化に傾倒している。最近読んだ岡倉天心の『茶の本』はとても良かった。電車内で読んでいたのだが、あまりに良すぎて降り過ごしてしまった程だ。

特に、豊臣秀吉の暗殺疑惑をかけられて自害を迫られた、千利休の最後の茶会が素晴らしかった。桜の花が喜んで散っていくように、利休さんも取り乱すことなくにっこり微笑みながらこの世を去った。儚いもの、消えていくものこそが美しいのだ。その美意識の高さに、感服せずにはいられない。

自然と共に生きる、自然に対する畏怖の気持ち、瑣末なことも丁寧に行うなど、茶道の精神の背景となる東洋の思想は本当に素晴らしいと思う(老荘思想やインドの哲学、仏教など)。こういう文化背景で育つことができて、私は本当に幸せだなと感じる。

日本にいた頃は日本の良さにあまり気が付かなかったが、海外で暮らしてみるとその素晴らしさにはっとする。中国やインドの古の文化を保存し洗練させたのは、他でもなく日本であると天心さんも言っていた。日本は多文化を吸収し、独自に発展させることに優れている国だ。筆記用具なんかも日本人が改良したものは本当に使いやすいし。

「無宗教」だとか言われるけど、仏教や八百万の神の考え方が色濃く反映されている日本の文化が好きだ。トイレにも神様がいるなんて素敵すぎる。(こっちのトイレには神様なんていやしないから、かなり残念なことになっている・・・)

とにかく、知れば知るほど日本や東洋の思想が好きになっていく。謙虚で質素で己を知っている。古来からのアジアの思想は、そんな気高いものなのだ。

某国の大統領になる人は、そんな考え方がこの世に存在しているなんてきっと夢にも思っていないんだろうな。世界中の人が仏教を実践すれば絶対に平和になると思うんだけどなあ・・・。私的には、仏教は宗教ではなく「生き方指南」や心理学だと思っている。だって、そもそも仏陀は神ではなく「悟った人」なのだし。

私自身はまだまだ煩悩にまみれているけど、何があっても心穏やかに生きられるよう、天心さん言うところの「茶の精神Teaism」を大切にしていきたい。

 

 

 

SNSよりもリアルがいいね。

現在、私はFacebookもTwitterもLineもやっていない。Skypeだけは仕事でも使うからアカウントを持っているけれど。

別にSNSを使うこと自体は全然悪いことではないと思うけど、どうも私には合わないと感じるから使っていないだけだ。

夫は毎日Facebookを見ているけれど、本当に良いと思った投稿に対してだけ「いいね」できるタイプの人間だから、そういったツールともうまくつきあっていけるんだろうなと思う。

一番良くないのは、SNSに振り回されてしまうことだと思う。友達と一緒にいるのにSNSをチェックしたり投稿したりするタイプは正直苦手だ。(知り合いにはいないけど)周りへのアピールはいいから、目の前のことに集中してほしいと思ってしまう。ネットのせいでどんどんマルチタスクになり、今実際にその場で起きていることへの関心が希薄になってしまうのはどうかと思う。

それに、リアルとSNSでの人格ってイコールじゃない部分も何だか怖い。最近読んだ朝井リョウの『何者』でもSNSのグロテスクな部分が描かれていた。(裏アカって何、怖すぎ!)いろんな自分を使い分けるなんて、分裂症的で健全じゃない。

私はやっぱり、リアルの方が好きなのだ。一度投稿したら消さない限り残り続ける言葉よりも、その場その場でシャボン玉みたいにぽんぽん消えていく言葉の方がずっといい。相手の表情もわかるし、空気感も共有できる。

それに、実際に人と会うのは一日のうちの限られた数時間だから良い。SNSだといつでもどこでもコンタクトを取れてしまうのが、苦手だ。私は外部との接触を断つ時間を確保したいので、SNSだとしんどくなる。飲み会で人に会うのは好きだけど、電車内で知り合いに会うのは微妙、というアレに似ている。

 

 

「子どもを産んで育ててこそ一人前」ってマジか

よく「子どもを産んで育ててこそ一人前」と言われる。私の親もよくそう言っていた。

私は「まあ確かにそうかもしれないかもな」と一理あると思いつつも、なんだか喉の奥に引っかかりを感じていた。

だって、世の中には子どもがいても「一人前」とは言いがたい人もいるし、逆の人も少なくないから。

最近見たCopacabanaというフランスの映画でも、一応子持ちだけどかなり奔放で子供っぽい女性をイザベル・ユペールが演じていた。(遅刻してパン屋の面接に落とされた腹いせにその店をめちゃくちゃにして、娘にドン引きされていたり)

子どもを産んで育てるのはものすごく大変なことであるのは理解しているつもりだけど、一人前になれるか否かは結局その人次第だと思う。

子育ては人を一人前にしてくれる大きなきっかけになるけれど、必ずしも皆が自動的に一人前になれるわけじゃないのでは。

子育ては、あくまでもきっかけ。

そして、世の中には子育て以外にも、人を一人前にするきっかけが色々あると思う。子育てはわかりやすいし目立つ項目だから取り上げられるけど、実は普段の生活にも、地味だけど人を大きくしてくれるいろんなきっかけが潜んでいるんじゃないだろうか。

 

私は別に他人に褒められるような人になりたいわけじゃなくて、自分が自分でいることを好きだと思える人になりたいと思っている。だから、他人に「お前は一人前だor一人前じゃない」と言われることは、そこまで重要じゃない。

結局のところ、自分で一人前だと思えれば良いんじゃないかな。自分が自分であることを恥ずかしくないと思えれば。

 

 

 

 

 

 

 

愛だの恋だの

私は昔、「愛こそすべて!」みたいな恋愛至上主義の痛い女子大生だった。結構やばい言動をしていたので、思い出すと滅茶苦茶恥ずかしい。人生で初めて彼氏が出来て、浮かれていたのもあるんだろうけど。

今は、愛も大事だと思うけれど、それだけじゃお腹が膨らまないと思っている。

今世間で話題になっている不倫も、最中は燃えるのかもしれないけど、後で冷静になったら「なんであんなことしちゃったんだろう」と絶対後悔するんじゃないかと思っている。

私は、リバースしちゃうとか酔った勢いでゴニョゴニョ、など一度もお酒関係でトラブルを起こしたことがないタイプの人間なので(お酒がそこまで好きじゃないっていうのもあるけど)、不倫は絶対にしないという不思議な自信がある。

そもそも恋愛なんて、今では錯覚・幻の類だと思っている。好きだと思っていた熱烈な気持ちだって、いつかは冷めてしまう。そんな一時の快楽のためにすべてを犠牲にするなんて、非常に馬鹿らしい。何、悲劇のヒロイン・ヒーロー気取ってるんだか、と思ってしまう。

もし晴れて不倫相手と一緒になったとしても、いつかはときめきのないありふれた日常がやってくる。ときめきを留めるためには、残されているのは心中しかない。そういえば、渡辺淳一の『失楽園』で、最後の章の警察による淡々とした二人の死体の報告が、妙に生々しく現実的だった。

 

恋愛至上主義なんて、本当にろくでもないものだ。「愛があればなにもいらない」と歌う安っぽいJポップにもお腹いっぱいだ。「お金より愛だ」と本気で信じている若者は今でもいるかもしれない。でも今の私にとって、それは真実じゃない。もし夫がニートで働く気ゼロだったら、絶対私は結婚しなかったし。お金と愛は比較する対象ではなく、違うベクトルの存在なんだと思う。もちろん、お金も愛も両方あるのが望ましいけれど。(個人的には、お金があり過ぎる人は高確率で浮気しそうなので、程々が良いと思うが)

それから、恋愛感情が情に変わることだって、私は全然悪いことだと思わない。それは当たり前のことだ。かつてのときめき欲しさに浮気する人も多いのかもしれないけれど、刹那的な快楽よりも落ち着きのある安心感の方が、実は得る方が難しいと思う。ドキドキする恋は一日あればできるものだけど、ほっとする安心感は長い月日が必要だ。

昔の少女マンガみたいな純愛に感動した少女だったのに、めちゃめちゃ冷めたリアリストな大人になってしまった。とにかく、今は恋したいと一ミリも思わない。ただただ、穏やかな日々を送りたいだけだ。

恋でしか高揚感やドキドキを味わえないなんて、ちょっと寂しいことだと思うし。それ以外のことにも楽しみを見いだせる、粋な大人になりたいものだ。

 

 

 

 

 

「友達」って難しい?!友達100人より知り合い100人

私は友達がかなり少ないんだけど、今はそれでいいやと思っている。

昔はそのことに悩んで友達を増やそうと頑張ったりしてみたけど、どうもうまくいかなかった。

それはたぶん、私の考える「友達の条件」が厳しすぎるせいもあるのかもしれない。

 

・価値観が似ている

・話題が合う。話が続く

・一緒にいて楽しい

・大幅な遅刻をしない

 

以上の4つなんだけど、一つでも欠けていると「二人で会うのはもういいかな」と思ってしまう(超薄情で傲慢な奴だと自分でも思うけど)。

話題があって一緒にいて楽しい子でも、一時間以上の遅刻を何回かされるとダメだ(一度なら許せるけれど)。

 

 

最近は、何でも話せる親友を作るよりも、ゆるい繋がりをたくさん作っておきたいと思っている。たまたま顔を合わせたら言葉を交わすくらいの関係が気楽でいい。仕事で関わる人とは、そういういい感じの関係ができているので嬉しい。決してプライベートでは会わないけど、別にそれで構わない。

親友なんて、めったにできるものじゃないのは分かっている。でもまあ、今は夫がその代わりみたいなものかも。一応勝手に親友だと思っている人も二人いるけど、あんまり会わないし連絡も半年に一回くらいだ。

「私達、親友だよね」と半ば脅迫のように濃厚な友情を確かめ合うのは子供時代で終わりにして、大人になってからはもっと緩やかで浅い人づきあいができるようになりたい。その中から親しい友ができれば嬉しいけど、別にできなくてもそれはそれでいいや。そんな風にリラックスして人と関わっていきたい。友達100人できなくてもいいんです、知り合い100人でも案外人生楽しいかもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

「安っぽい」夏

もうすぐ夏が来る。(でも私のいる場所はまだ少し寒いけど)

夏が近づくと、なぜかそわそわしてしまう。

私は夏が好きなのである。

夏の好きなところ、それは「安っぽさ」だ。決して「安い」わけじゃなくて、あくまでも「安っぽい」のだ。

たとえば縁日のけばけばしさ、派手な浴衣の色、ガラスのおはじき、かき氷の赤や緑のシロップ、蚊取り線香の匂い・・・そういった「安っぽい」イメージが私に夏を喚起させる。

あと、夏の恋愛も安っぽい。いわゆるひと夏の恋ってやつ。「夏の日の1993」って歌が昔あったけれど、夏の恋は私の中でそのイメージ。「君、いい体してるじゃん!」で始まる欲望むき出しの短い恋。真夏の江ノ島や由比ヶ浜あたりで繰り広げられていそうな・・・。(私自身はそういう経験はないんだけど、昔山田詠美の小説を読んでひと夏の恋に憧れたことがある。題名は忘れたけど、島の男の子と夏休みに恋をする短編だった)

 

 そういう、日本の安っぽい夏がたまらなく恋しく、懐かしい。

私は昔、フランスの「特別な夏」に憧れていた。太陽の季節に特別な思いを寄せるフランス人にとって、短い夏はかけがえのないもの。『タルキニアの子馬』や『海の百合』『青い麦』なんかを読みながら、気だるいフランス人の海辺のバカンスに想いを馳せていた。

そういうリッチな夏も悪くないし素敵なんだけど、やっぱり私は安っぽい夏に心惹かれてしまう。

もう二度とやって来ない、学生時代の「夏休み」もとても懐かしい。まだ見ぬ未来に不安だったけれど、蝉しぐれとうだるような暑さが永遠に続くかのように思えた、永い永い夏休み。なぜか、スピッツの「チェリー」を聴くとあの頃の気分を思い出す。当時流行っていたからだろうか。

ああ、安っぽい夏を味わいたい。正気を失う暑さと馬鹿みたいに涼しい冷房、畳の上でのうたた寝、100円の棒つきアイスキャンディー、やかましい蝉しぐれ、青々とした森、縁日の匂い。そういうありふれた日本の夏を、これほど恋しく思うなんて。

 大切じゃないように見えて大切なものを、どこかに置いてきてしまったような喪失感。別になくたって構いやしないけれど、どうも一抹の寂しさを感じてしまう。

まぶしい太陽と淡い夕闇が同居している夏、高揚感と倦怠感が同時にやってくる夏、長く感じられるのに気がつけばすぐ去ってしまう夏・・・。

夏は、やっぱり私の中で特別な季節なのだ。