ひっかかりごと。

日常生活で引っかかったことを綴ります。

私がサプライズが嫌いな3つの理由。これ、手口が完全にDVと一緒じゃん!

家族の誕生日が近いが、私は普通に予告して祝うことにするつもりだ。

私はサプライズが大嫌いだから、されたことはあっても一度もしようと思ったことがない。

なぜ嫌いなのか。その理由は主に3つある。

その1:やり口がDVと同じだから

例えば、最初にくだらないプレゼントを渡して当人をガッカリさせた後、本命を出して喜ばせるパターン。

それ、DVと同じ手口ですから!!!

暴力を振るった後、急に優しくして「本当は優しいんだ」と思わせるパターン。

幸い、私の夫もサプライズが嫌いな人間なので、上記のようなサプライズはされたことがないし、今後もされることもないだろう。

もしやってきたら、ぶん殴りモノだ。

DVの手口にはDVで応酬するしかない。

「さっさと本命だけよこせ。くだらない小細工はするな。

それにくだらないプレゼント買う金があったら、ポテチとジュース買ってこい!」と言うだろう。

その2:「楽しみに待つ」時間を奪うから

例えば、当日いい感じのレストランにご飯を食べに行くと予告しておいてくれたら、その日までルンルン気分で待つことができる。

私は楽しみに待つ時間も大好きだから、サプライズという自己満足のために我々のような人間の楽しみを奪わないでほしい。

その3:当日に向けてこっちも準備したいから

イベントがあるなら、服とか髪型とかアクセサリーとかちゃんとしたいから、教えてほしい。

ぼさぼさ頭ですっぴん、ジーンズにパーカーという格好なのに高級ホテルへ連れていかれても、全然嬉しくない。

せっかくそういう機会を作ってくれるなら、こっちにもお洒落させろや。

その4:喜んだふりをしなければならないから

私だって人の心を持っているので、「私のために」やってくれたことを全否定することなんてできない。

引き攣った顔で「ありがとう」と言わなければならないことの辛さよ…。

 

 

世の中にはサプライズ嫌いな人も好きな人と同じくらいいると思うので、その人の性格を考慮してやるかやらないか決めるのがいいと思います…。

サプライズして「喜べ」の押し付け、禁止!

 

一体、私のなにがわかるというのだろう。

この前、初めて差別らしい差別を受けた。

地下鉄の出口から外に出る時、知らない人に「中国人めが」みたいに声を上げて罵られた。私は別にそのおっさんの足を踏んだわけでも、ぶつかったわけでもない。ただ、そこにいただけだ。

私は突然のことにびっくりしてちょっと固まってしまったが、強く言い返すと私もこの人と同類になると思って、何も言わなかった。(「いきなりなのはステーキだけにしてほしいものだ」とくだらない冗談を考える余裕もあった)

その後は、友達と会ったり美味しいものを食べたりして楽しい時間を過ごした。

だから、夜になるまでそのことをほぼ忘れていた。家に帰ってぼんやり今日あったことを思い出していると、例の差別おっさんのことがゾンビの如く蘇ってきた。

「生まれた所や皮膚や目の色で 一体この僕のなにがわかるというのだろう」『青空』The Blue Hearts

このフレーズが頭をよぎったので、私は『青空』が無性に聴きたくなった。この曲を心の底から感じることができるのは、まさに今なんだと思った。

細かい歌詞の部分は実はうろ覚えだったけど、改めて聴いてみると想像以上に深い曲なんだと気がついた。歌の出だしはネイティブアメリカンの迫害を皮肉っているし、「運転手さん…」のくだりはキング牧師の黒人解放運動のきっかけになったモンゴメリー・バス・ボイコット事件を踏まえているし。決して感傷的じゃないんだけど、淡々と乾いた歌詞やサウンドが逆に響くのよね…。

 

甲本ヒロトの歌声を聴きながら歌を口ずさんでいると、思わず泣いてしまった。もう、一晩中泣き止まなかった。明日忙しいのに、全然寝ることができない。

先ほど引用した「生まれた所で…」の歌詞について、「いや、生まれた所とかある程度関係あるでしょ」なんていう意見があるのもわかる。でも、あえて「なにがわかるというのだろう」とバシッと言い切ってしまう潔さが私は好きだ。きっと真島昌利さんは高潔な人だ。

 

翌日、私はいつものように堂々と町を歩いた。絶対に怖がったりしたくなかった。

混雑したメトロの中、揺れる車内でおじさんとぶつかった。私は咄嗟に謝った。

おじさんは「Ce n'est pas grave(大したことじゃないよ)」と言って笑った。

そして車体が傾き、私はまたおじさんにぶつかった。おじさんは声を上げて笑い、私もつられて笑った。

あ、大丈夫だ、と思った。私たちには笑い合う余裕も十分、残されている。メトロは決して綺麗じゃないし、ぎゅうぎゅうに混雑している。それでも他者に優しくできる人は、きっとこの町にたくさんいる。

 

 

 

難しい顔をして悩んでいた子供の頃の自分は、正しかった

私は子供の頃、眉根に皺を寄せて難しい顔をしていたことが多かった。写真を撮る時、おかしくもないのに「笑って」と大人に言われることが嫌だった。

何に対しても懐疑的で、人を心から信じることができなかった。学校が嫌いで、早く家に帰って一人でのんびりしたいと思っていた。

学校の先生がよく口にする「みんな」という言葉が嫌いだった。「みんな」という言葉は、一人一人の生徒を一つの大きな塊にする言葉に思えてならなかった。「みんな困ってるよ」と言っている本人が実は困っているのに、実態のない「みんな」に責任を押し付けるのは卑怯じゃないのか。

当時は、学校に馴染めない自分を「悪」だと思っていた半面、学校なんて取るに足らないものだとも思っていた。嫌っていたけど、その価値は渋々認めていた。だって、大人の言うことはやっぱり「絶対に」正しいと思っていたから。

でも、今は「絶対に」正しいことなんて存在しないのだと思っている。価値観や常識は時代や場所が変わればコロコロ変わってしまう。普遍的な価値観って実はないんじゃないか。

子供の頃親しんでいたヒーローも、「正義」の名のもとに「敵」と認識した奴らをバッサバッサとなぎ倒していく傍若無人な連中に今は思えてならない。正義って何なのか。絶対的な正義が存在するというのだろうか。個人的に、「正義」とはマジョリティ・あるいは強者の意見であって、マイノリティや弱者の意見ではないと思う。

アンパンマンは町の「みんな」を困らせるバイキンマンをアンパンチで容赦なく排除するけど、バイキンマンはばい菌としての使命を全うしているだけだ。だけどアンパンマンはバイキンマンの事情を慮ることは一切しない。「邪魔者は叩き潰すのみ」なのだ。

自分の思う正義を絶対視している単細胞なヒーローよりも、「正義なんて知ったこっちゃないけど、とにかく自分の邪魔になるやつはやっちゃうよ」というスタンスのデッドプールみたいな「アンチ・ヒーロー」の方が今の私にはしっくりくる。

「正義」は一つではなくて、人の数だけ「正義」がある。絶対的なものではなく、相対的なものだ。「何が何でも、この信条だけを守り抜く!」と一つの思想に傾倒するのではなく、その都度自分にとって何が正しいのか、立ち止まって考えてみる。何事も心の底から信じてしまうのではなく、常に懐疑心を持ち続けること。

難しい顔をしてうんうん毎日考えて悩んでいた子供の頃の自分の姿は、実は正しかったんじゃないかと今は思っている。

「言葉には限界がある」ことの、無限の可能性

結婚する前、よく周りの人から「どうして彼を選んだの?」と聞かれた。

「優しいから」「気が合うから」「面白いから」とかそれなりに理由は言葉にできなくもないけど、一番の理由は「彼だから」としか言いようがない。

好きになる理由って、簡単に言葉で表せないものじゃないだろうか。

その人だけが持つ独特のオーラ(インテリっぽく言えば「アウラ」)にびびっときたから好きになるものだと思う。

心理学的には、「好きな理由」を言葉で明確に表せてしまうのは危険なことらしい。例えば「美人だから好き」という理由でAさんを好きになった人は、Aさんよりもっと美人なBさんが現れたら、いとも簡単にAさんからBさんに乗り換えてしまうだろう。言葉で表せる理由は、実はすべて代替可能なのだと思う。

最近よく人に対して使う「スペック」という言葉が何となく好きじゃないのも、この理由からだ。一人ひとりが持つ言葉にできない部分をそぎ落として、大量生産の製品のように無機質な存在にしてしまう。

 いくら「スペックが優れた(例えば、性格が良くてお金があって見た目もいい)」人であっても、恋愛で必ずしもうまくいくとは限らないのは、人間には「言葉にできない部分」があるからなんだと思う。

 

言葉には限界があり、決して万能ではない。

伝えたいことの半分も伝わらなくて悔しい経験をしたこともたくさんあるけど、私は言葉の限界に絶望しない。むしろ言葉だけでは表せないことがたくさんあるからこそ、希望を感じる。

アラスカの空に浮かぶオーロラの色、ルーブル美術館の『モナ・リザ』、インドのガンジス河の風景、柴犬の硬いようでやわらかい微妙な毛、気の置けない人たちとの楽しいお喋り、泣き出したいほど辛い出来事、恋人の笑顔。

実際に目で見たことや自分の経験は、完璧に言葉で語り尽くせるものではない。こういったものは、完全に他人と共有できないものだ。だからこそ、実際に自分自身で体験することが大切なのだ。

言葉が万能でなくて良かった。もし言葉だけで世界が完結してしまうなら、人生はもっと退屈になっていただろう。これからも私は「言葉にできないもの」をひたすら集めながら、自分の人生を生きていきたい。

なんとなく僕たちは大人になるんだ

銀杏BOYZの曲は割と好きだ。童貞臭い女子への永遠の憧れと父性への憎悪、微熱に浮かされたような独特の高揚感は美しくもあり、明け方に見る生々しい悪夢のようでもある。

でも、『なんとなく僕たちは大人になるんだ』のように、大人になることを汚れることだと考えるのは私には馴染まない。子供でも大人でもない宙ぶらりんな感じを称揚するには私は年を取り過ぎているし、大人である今の自分を心地よく思っているからだ。

私は大人になることを「ああやだな やだな」と思ったことは一度もない。むしろ早く大人になりたいと思っていた。

私はもう三十の大波に乗ったわけだが、心はとても穏やかだ。そりゃ、肌だってどんどんハリがなくなってたるんでいくし体も衰えていく一途だけど、年を取れば取るほど色々な「しがらみ」から解放され、どんどん軽くなっていくような気持ちになる。まあ、私が日本よりずっとアバウトな国に住んでいるというのもあるんだろうけれど。

「できないこと」「苦手なこと」「悩み」はどんどん「不要物」に振り分けられ、自分のできること、したいこと、輝いていることだけが手元に残っている。

 

・「悩み」は悩むから「悩み」になるわけで、そのこと自体を考えなければ悩みにならない。

・できないものはしょうがない。できる人にやってもらう。これだけ世界に人間がいるのは、お互いに助け合うためなのだから。

・才能は「神様からのギフト」なのだから、人を妬まない。自分にも何らかの才能はあるのだから。

・できないことで自分を責めてもできるようにはならないから、無理だと諦めることも大切。どんなに頑張ってもライオンがチーターより速く走れないのと同じように。元々向き不向きはある。

・諦めることは逃げることではない。

・その代わり、自分の得意なことを人のためにしてあげる。例えば夫は料理が苦手だから、比較的得意な私が作る。

・人に迷惑をかけてしまうのは生きていれば避けられない。でも、すぐに謝れば案外遺恨は残らないからだいたい大丈夫。

・一回の失敗で「もうだめだ」と決めつけない。長い目で見る。

・人に期待すると裏切られた時に腹が立つから、あまり期待し過ぎない。

 

私が自分を「大人になったな」と思うのは、こういうことを悟った時だ。言葉にしてしまえば何てことないかもしれないけれど、このことに気が付くまでだいぶ時間を費やしたし、たくさん痛い思いもしたし、たくさん人を傷つけてきた。

私は大人になったことで、世界がより美しく見えてきた。世の中には綺麗なものや楽しいこと、気持ちいいことがたくさんあると気が付いた。でも、私は世界に期待し過ぎないようにしている。だから、世界も私に期待し過ぎないでほしい。

三十路を過ぎた今の私の世界には、銀杏BOYZのようなひりつく感受性や反抗心など微塵もない。なぜなら、私は大人になることの引き換えに、青臭い青春をどこかに捨ててきてしまったからだ。時々、使い込んだ体操着の臭いのする若かりし頃の「セイシュン」を懐かしく思うこともあるけど、仏壇の線香の匂いのしみ込んだ「オトナ」はあまりに心地良いから、もはや手放せないのだ。

「常識なんて誰かが決めたこと」って、ぼのぼのも言ってた

私は子供の頃『ぼのぼの』が好きで毎週アニメをを楽しみにしていたし、マンガも読んでいた。幼かった自分にはよく分からない哲学的で難しいエピソードなんかも時々あったけど、それもひっくるめて心惹かれていた。

アニメのエンディングテーマ「近道したい」の歌詞に「常識なんて誰かが決めたこと」というフレーズがあるんだけど、この歌詞が私の人生にそこそこ大きな影響を与えたんじゃないかなと、今になって思う。

私は現在海外に住んでいるので、「常識」が絶対的なものじゃないことを結構痛感している。日本で常識だったことはこっちではそうじゃないし、その逆も然りなのだ。

常識って知らず知らずのうちに刷り込まれるもので、自分が社会に洗脳(というと大袈裟?)されていることに気が付かない人も少なくないと思う。うちの親は常識は絶対的なものだと思っているので、話していて嚙み合わないこともたまにある。やれやれ。

「常識」を刷り込まれるのは、学校であることが多いんじゃないだろうか。例えば学校給食。「好き嫌いなく何でも食べる」「お残しは許しまへんで!」等、ランチタイムにここまで学校側が介入してくるのは日本くらいらしい。嫌いなものを食べるまで昼休みなし、なんて先生もいる。そりゃあ、何でも食べられるに越したことはないけど、子供の味覚って未発達だし、大人になって好きになる場合もあるんだから、あんまり無理強いするのってどうかなと思う。野菜が一切駄目!とかあまりにも偏食なのは健康にも影響があるから良くないけど、「ホウレンソウがどうしてもダメ」くらいならしょうがないと思う。他にもやたら厳しい校則とか、日本の学校って理不尽なことがあふれていると思う。こういう理不尽な教育を受けてきたから、理不尽を理不尽とも思わない「立派な」社畜が生産されていくんじゃないだろうか…OLT

また、「結婚」や「出産」についても悩んでいる人も多いと思う。結婚していないと「どうして結婚しないの?」と言われたり、既婚でも子供がいないと「子供はまだ?」と聞かれたりすることって多いですよね?私の親戚にも40代で独身の人がいるけど、周りから結婚についてとやかく言われているみたいで可哀そうになる。したくないならしないでいいと思うし、仮に結婚してうまくいかなくても外野はワーワー騒ぎ立てるだけで責任を取ってくれないのだから。(まあ、失敗したら人のせいにできるメリットはあるか笑)

そもそも婚姻制度って、個人のためというよりは家族や国家とかの集団のための制度だと思う。「お嫁に行く」って言葉は女性が貨幣と同じ「モノ」としてホモソーシャルな社会で捉えられていた証拠だし、今だってほとんどの女性が男性側の姓に変更している。

ちょっと脱線したけれど、何が言いたいかというと、結婚する権利もあるなら、しない権利もあると思うのだ。私は一応、自分の意志で結婚した。結婚する方が彼氏と一緒に生きていく上で色々メリットが多いと思ったから。別に、親の期待に応えたかったわけではない。まあ、結果として喜んでくれたらいいけどね。自分の意志で選ぶのは自分の人生に主体性を感じられるので、私は好きだ(その代わり、失敗したら自分の責任だから人のせいにできない辛さはあるけど)。

そして結婚に限らず、社会全体が多様性に寛容であるともっと生きやすいんじゃないかなと思う。たぶん、ぼのぼのもそう思っているはずだ。

人見知りとかマイナス思考とか、「欠点」も人類が生き延びるために必要だったんじゃない?

人の性格や気質で欠点だと思う部分も、実は生きのびるために必要だったのではないかと最近思っている。

例えば、現代において人見知りは基本的に欠点と見なされるけど、この気質だって、かつてご先祖様たちがサバイブするために必要なものだったから、我々現代人にも伝えられているのではないだろうか。

フレンドリーなのが良いという価値観は、現代のような成熟した文明を持つ法治国家ならではのものだ。「自分と身内以外は全部敵」状態の世界では、知らない人にニコニコ笑いかけて隙を見せていたらあっという間に殺されてしまうはずだ。人懐こい野生動物など存在しないように、ストレンジャーに一歩距離を置くのはごく当たり前のことだったんだと思う。人見知りで悩んでいる人は、「自分は野生の感覚に近いんだ」とむしろ誇りを持っていいと思う(*'ω'*)

マイナス思考も現代では短所に見なされるけど、最悪の事態を想定することでピンチを切り抜け、生き延びることができた人もたくさんいたんじゃないだろうか。

短所も見方を変えれば長所になるから、あんまり自分を変えようと躍起になるより、短所を長所に変換できる場で活躍するのが良いのかもしれないね。

その人の一端だけを見て「お前はダメな奴だ」とか判断するのは本当にしょうもないと思う。本当にダメだったら、とっくのとうに淘汰されてこの世に生まれてきてないんだろうし。

「あいつはダメ人間だ」とか「自分は生きる価値もない」みたいに、勝手に自分の尺度で判断するもんじゃないと思う。本当にダメかダメじゃないかは人間が決めるんじゃなくて、歴史とか進化とか何かもっとスケールのでかいものが答えを出すんじゃないだろうか。

別に何の根拠もないけど、そう思うとなんか心がスッとするのよね…。