ひっかかりごと。

日常生活で引っかかったことを綴ります。

「言葉には限界がある」ことの、無限の可能性

結婚する前、よく周りの人から「どうして彼を選んだの?」と聞かれた。

「優しいから」「気が合うから」「面白いから」とかそれなりに理由は言葉にできなくもないけど、一番の理由は「彼だから」としか言いようがない。

好きになる理由って、簡単に言葉で表せないものじゃないだろうか。

その人だけが持つ独特のオーラ(インテリっぽく言えば「アウラ」)にびびっときたから好きになるものだと思う。

心理学的には、「好きな理由」を言葉で明確に表せてしまうのは危険なことらしい。例えば「美人だから好き」という理由でAさんを好きになった人は、Aさんよりもっと美人なBさんが現れたら、いとも簡単にAさんからBさんに乗り換えてしまうだろう。言葉で表せる理由は、実はすべて代替可能なのだと思う。

最近よく人に対して使う「スペック」という言葉が何となく好きじゃないのも、この理由からだ。一人ひとりが持つ言葉にできない部分をそぎ落として、大量生産の製品のように無機質な存在にしてしまう。

 いくら「スペックが優れた(例えば、性格が良くてお金があって見た目もいい)」人であっても、恋愛で必ずしもうまくいくとは限らないのは、人間には「言葉にできない部分」があるからなんだと思う。

 

言葉には限界があり、決して万能ではない。

伝えたいことの半分も伝わらなくて悔しい経験をしたこともたくさんあるけど、私は言葉の限界に絶望しない。むしろ言葉だけでは表せないことがたくさんあるからこそ、希望を感じる。

アラスカの空に浮かぶオーロラの色、ルーブル美術館の『モナ・リザ』、インドのガンジス河の風景、柴犬の硬いようでやわらかい微妙な毛、気の置けない人たちとの楽しいお喋り、泣き出したいほど辛い出来事、恋人の笑顔。

実際に目で見たことや自分の経験は、完璧に言葉で語り尽くせるものではない。こういったものは、完全に他人と共有できないものだ。だからこそ、実際に自分自身で体験することが大切なのだ。

言葉が万能でなくて良かった。もし言葉だけで世界が完結してしまうなら、人生はもっと退屈になっていただろう。これからも私は「言葉にできないもの」をひたすら集めながら、自分の人生を生きていきたい。

なんとなく僕たちは大人になるんだ

銀杏BOYZの曲は割と好きだ。童貞臭い女子への永遠の憧れと父性への憎悪、微熱に浮かされたような独特の高揚感は美しくもあり、明け方に見る生々しい悪夢のようでもある。

でも、『なんとなく僕たちは大人になるんだ』のように、大人になることを汚れることだと考えるのは私には馴染まない。子供でも大人でもない宙ぶらりんな感じを称揚するには私は年を取り過ぎているし、大人である今の自分を心地よく思っているからだ。

私は大人になることを「ああやだな やだな」と思ったことは一度もない。むしろ早く大人になりたいと思っていた。

私はもう三十の大波に乗ったわけだが、心はとても穏やかだ。そりゃ、肌だってどんどんハリがなくなってたるんでいくし体も衰えていく一途だけど、年を取れば取るほど色々な「しがらみ」から解放され、どんどん軽くなっていくような気持ちになる。まあ、私が日本よりずっとアバウトな国に住んでいるというのもあるんだろうけれど。

「できないこと」「苦手なこと」「悩み」はどんどん「不要物」に振り分けられ、自分のできること、したいこと、輝いていることだけが手元に残っている。

 

・「悩み」は悩むから「悩み」になるわけで、そのこと自体を考えなければ悩みにならない。

・できないものはしょうがない。できる人にやってもらう。これだけ世界に人間がいるのは、お互いに助け合うためなのだから。

・才能は「神様からのギフト」なのだから、人を妬まない。自分にも何らかの才能はあるのだから。

・できないことで自分を責めてもできるようにはならないから、無理だと諦めることも大切。どんなに頑張ってもライオンがチーターより速く走れないのと同じように。元々向き不向きはある。

・諦めることは逃げることではない。

・その代わり、自分の得意なことを人のためにしてあげる。例えば夫は料理が苦手だから、比較的得意な私が作る。

・人に迷惑をかけてしまうのは生きていれば避けられない。でも、すぐに謝れば案外遺恨は残らないからだいたい大丈夫。

・一回の失敗で「もうだめだ」と決めつけない。長い目で見る。

・人に期待すると裏切られた時に腹が立つから、あまり期待し過ぎない。

 

私が自分を「大人になったな」と思うのは、こういうことを悟った時だ。言葉にしてしまえば何てことないかもしれないけれど、このことに気が付くまでだいぶ時間を費やしたし、たくさん痛い思いもしたし、たくさん人を傷つけてきた。

私は大人になったことで、世界がより美しく見えてきた。世の中には綺麗なものや楽しいこと、気持ちいいことがたくさんあると気が付いた。でも、私は世界に期待し過ぎないようにしている。だから、世界も私に期待し過ぎないでほしい。

三十路を過ぎた今の私の世界には、銀杏BOYZのようなひりつく感受性や反抗心など微塵もない。なぜなら、私は大人になることの引き換えに、青臭い青春をどこかに捨ててきてしまったからだ。時々、使い込んだ体操着の臭いのする若かりし頃の「セイシュン」を懐かしく思うこともあるけど、仏壇の線香の匂いのしみ込んだ「オトナ」はあまりに心地良いから、もはや手放せないのだ。

「常識なんて誰かが決めたこと」って、ぼのぼのも言ってた

私は子供の頃『ぼのぼの』が好きで毎週アニメをを楽しみにしていたし、マンガも読んでいた。幼かった自分にはよく分からない哲学的で難しいエピソードなんかも時々あったけど、それもひっくるめて心惹かれていた。

アニメのエンディングテーマ「近道したい」の歌詞に「常識なんて誰かが決めたこと」というフレーズがあるんだけど、この歌詞が私の人生にそこそこ大きな影響を与えたんじゃないかなと、今になって思う。

私は現在海外に住んでいるので、「常識」が絶対的なものじゃないことを結構痛感している。日本で常識だったことはこっちではそうじゃないし、その逆も然りなのだ。

常識って知らず知らずのうちに刷り込まれるもので、自分が社会に洗脳(というと大袈裟?)されていることに気が付かない人も少なくないと思う。うちの親は常識は絶対的なものだと思っているので、話していて嚙み合わないこともたまにある。やれやれ。

「常識」を刷り込まれるのは、学校であることが多いんじゃないだろうか。例えば学校給食。「好き嫌いなく何でも食べる」「お残しは許しまへんで!」等、ランチタイムにここまで学校側が介入してくるのは日本くらいらしい。嫌いなものを食べるまで昼休みなし、なんて先生もいる。そりゃあ、何でも食べられるに越したことはないけど、子供の味覚って未発達だし、大人になって好きになる場合もあるんだから、あんまり無理強いするのってどうかなと思う。野菜が一切駄目!とかあまりにも偏食なのは健康にも影響があるから良くないけど、「ホウレンソウがどうしてもダメ」くらいならしょうがないと思う。他にもやたら厳しい校則とか、日本の学校って理不尽なことがあふれていると思う。こういう理不尽な教育を受けてきたから、理不尽を理不尽とも思わない「立派な」社畜が生産されていくんじゃないだろうか…OLT

また、「結婚」や「出産」についても悩んでいる人も多いと思う。結婚していないと「どうして結婚しないの?」と言われたり、既婚でも子供がいないと「子供はまだ?」と聞かれたりすることって多いですよね?私の親戚にも40代で独身の人がいるけど、周りから結婚についてとやかく言われているみたいで可哀そうになる。したくないならしないでいいと思うし、仮に結婚してうまくいかなくても外野はワーワー騒ぎ立てるだけで責任を取ってくれないのだから。(まあ、失敗したら人のせいにできるメリットはあるか笑)

そもそも婚姻制度って、個人のためというよりは家族や国家とかの集団のための制度だと思う。「お嫁に行く」って言葉は女性が貨幣と同じ「モノ」としてホモソーシャルな社会で捉えられていた証拠だし、今だってほとんどの女性が男性側の姓に変更している。

ちょっと脱線したけれど、何が言いたいかというと、結婚する権利もあるなら、しない権利もあると思うのだ。私は一応、自分の意志で結婚した。結婚する方が彼氏と一緒に生きていく上で色々メリットが多いと思ったから。別に、親の期待に応えたかったわけではない。まあ、結果として喜んでくれたらいいけどね。自分の意志で選ぶのは自分の人生に主体性を感じられるので、私は好きだ(その代わり、失敗したら自分の責任だから人のせいにできない辛さはあるけど)。

そして結婚に限らず、社会全体が多様性に寛容であるともっと生きやすいんじゃないかなと思う。たぶん、ぼのぼのもそう思っているはずだ。

人見知りとかマイナス思考とか、「欠点」も人類が生き延びるために必要だったんじゃない?

人の性格や気質で欠点だと思う部分も、実は生きのびるために必要だったのではないかと最近思っている。

例えば、現代において人見知りは基本的に欠点と見なされるけど、この気質だって、かつてご先祖様たちがサバイブするために必要なものだったから、我々現代人にも伝えられているのではないだろうか。

フレンドリーなのが良いという価値観は、現代のような成熟した文明を持つ法治国家ならではのものだ。「自分と身内以外は全部敵」状態の世界では、知らない人にニコニコ笑いかけて隙を見せていたらあっという間に殺されてしまうはずだ。人懐こい野生動物など存在しないように、ストレンジャーに一歩距離を置くのはごく当たり前のことだったんだと思う。人見知りで悩んでいる人は、「自分は野生の感覚に近いんだ」とむしろ誇りを持っていいと思う(*'ω'*)

マイナス思考も現代では短所に見なされるけど、最悪の事態を想定することでピンチを切り抜け、生き延びることができた人もたくさんいたんじゃないだろうか。

短所も見方を変えれば長所になるから、あんまり自分を変えようと躍起になるより、短所を長所に変換できる場で活躍するのが良いのかもしれないね。

その人の一端だけを見て「お前はダメな奴だ」とか判断するのは本当にしょうもないと思う。本当にダメだったら、とっくのとうに淘汰されてこの世に生まれてきてないんだろうし。

「あいつはダメ人間だ」とか「自分は生きる価値もない」みたいに、勝手に自分の尺度で判断するもんじゃないと思う。本当にダメかダメじゃないかは人間が決めるんじゃなくて、歴史とか進化とか何かもっとスケールのでかいものが答えを出すんじゃないだろうか。

別に何の根拠もないけど、そう思うとなんか心がスッとするのよね…。

 

 

そういえば、最近あまり悩まなくなった

昔はあーだこーだ毎日悩んでいたけど、今は驚くほど悩まない。もちろんいいことばかりじゃなくて問題やトラブルも日々起きるけど、あんまり動じなくなったように思う。

悩むこと自体を否定しているわけじゃないんだけど、無駄な悩みを排除しようと意識してきたからだと思う。より良い選択をするために「どうしよう」とあれこれ考えることは建設的でいい悩みだけど、「〇〇さんに変に思われていたらどうしよう」とか「失敗するかもしれない」と、考えたところで一ミリも現実が変わらない悩みは、はっきり言って無駄無駄!だ。〇〇さんの思考を変えることもできないし、失敗を憂えても成功にはつながらない。

思春期の頃は、深刻な顔をして悩みのポーズをとることが何だか格好いいと勘違いしていた節がある。黒歴史ですな・・・。中学くらいまでは、とにかくすることがあんまりなかったんだと思う。勉強も部活もあんまりやる気がなかったし。だから悩みが娯楽の一つのようなものだったのかもしれない。でも娯楽にしては気分が晴れ晴れすることもないし、ちょっとずつ心を傷めつけていた。かゆい部分を掻くと気持ちいいけど、掻きすぎると傷になってしまうのと同じように。そういう深刻ぶるポーズも、今思うとめちゃめちゃダサいし、ばかばかしい。

他人の答えのない悩みに対しても、めんどくせえと思うようになってしまった。だって、結局答えを出すのは自分なんだし。こっちが一所懸命アドバイスしても上の空だったり聞く耳を持たなかったりする場合も多いし。他の人からしたらただの嫌な奴に成り下がったかもしれないけど、まあいいかと思っている。

私は生得的な楽観主義者じゃなくて、あれこれ悩んだ末に楽観的になった人間だ。自分で言うのもなんだけど、なかなか悪くないんじゃないだろうか。これからも無駄な悩みに心を煩わすことなく、よりよい未来に必要なことだけを悩んで生きていきたいものだ。

 

 

来来来世。  仏教とカルマと、夢と妄想膨らむ来世。

フランスでも『君の名は』公開されたので、いろいろな人に勧められて観た。

演出や展開の仕方も上手でキャラも魅力的だし、「こりゃヒットするな」と思わせる映画でした。

個人的には結構好きです。

 

中でも引っかかったのは、世間でも話題になったRadwimpsの「前前前世」という歌だ。前世や来世を信じる仏教徒っぽい歌だなと思った。

まあ日本人の場合は半信半疑の人が大半だと思うけど、チベットやネパールなどガチの仏教徒国では前世や来世を本気で信じているらしい。

仏教の元々のゴールは「苦しみに満ちた」生まれ変わりのサイクルから抜け出すことだけど、現代では(特に日本とか先進国では)また生まれ変わりたい!なんて酔狂な人が多いのである。

私も来世があったらいいなと思う派だ(ただし条件付きだが)。

世の中素敵な男性が多すぎて、既婚者の私は「来世この人と結婚したい!」と思う人のリストが長くなってしまう。「今世はお互い無理だから、来世で一緒になろうぜ」なんてプロポーズ、超絶素敵な既婚男性から受けてみたいものである(来世じゃお互い同性になるかもしれないが)。

「前前前世」もいいけど、「来来来世」にも夢が詰まっている。

 

 

 

 

 

『聲の形』を読みました。人の弱さと強さ、何度でも対話し続ける勇気。

『聲の形』は、日本語の生徒さんに教えてもらって知った。アニメ・マンガ大好きな若い彼らは、むしろ私より日本のサブカルに詳しい。

いじめがメインテーマである本作は、決して読んでいて気持ちの良いものではない。昔の自分の嫌な体験もフラッシュバックしてきて、正直辛かった。でも、『聲の形』の登場人物たちの弱さや脆さ、そして強さが愛おしいと思った。

この作品は耳の聞こえない少女・西宮硝子をめぐる元クラスメート達の物語である。主人公の石田将也は小学校に転向してきた彼女を退屈しのぎにいじめるのだが、彼女をいじめていたせいで、今度は自分がいじめられることになる。いじめられてはじめて他人の痛みがわかるようになった将也だが、覆水盆に返らず。傷つけてしまった硝子の心の傷は、生半可なことでは癒せない。

子供は、大した理由もなくいじめに走ることが多いと思う。それは、自分こそが世界の中心で、他人にも心があると考えが及ばないせいだと思う。私も子供の頃にそうだった。自分の言動が人を傷つけるとは露ほども思わず、注意されて初めて「悪いことをしたな」と反省したことがある。この世の中は自分中心に回っているわけではなく、自分は世界に対してちっぽけな存在でしかないのだと悟ったら、私は自分の言動で人を傷つけるのが怖くなった。

 『聲の形』には、石田将也以外にも様々な「しくじり」を抱えたキャラクターが登場する。西宮硝子をサポートしようとしたけれど「点数稼ぎ」と陰口を叩かれて登校拒否になった佐原みよこ。硝子を憎み、好意を寄せる将也にも素直になれない植野直花。内心硝子を快く思っていなかったのに、自分は決していじめに加わっていないと主張する川井みき。いじめられた過去を晴らすことに執着する、真柴智。

作者の方も同じことを言っていたけれど、どちらかと言えば私も佐原さんが好きだ。彼女もいじめを受けて引きこもってしまったが、高校生になった今では、どんなこともしなやかに受け止める強さがある人だから。

高校で初めて石田将也の友達になる三枚目の好青年・永束君に加えて、硝子の妹の結弦も結構好きだ。最初は自称・硝子の彼氏として登場したボーイッシュな彼女は、障害のある姉を持つがゆえに、強くならなきゃと人一倍頑張る。男の子みたいな格好も姉を守りたいがゆえ。動物の死骸の写真を撮るのが趣味な中二病的なイタイ子かと思いきや、実はそれにも深い理由があったりする。(鳩の死骸のあった部分が空白になった写真は、深い意味がありそうで気になった。映画『アメリカン・ビューティ』の、少し偏執的で病的な少年を思い出した。)唯一結弦が自分の弱さをさらけ出せるおばあちゃんが亡くなってしまったシーンは、こっちも泣いてしまった。

硝子と結弦のお母さんは、最初は「感じわりいキツいババアだな」と正直思ったけれど、その突っ張ったところも我が子を愛するゆえの愛のムチみたいなものだったんだなとわかったら、めちゃくちゃ感情移入してしまった。本当はとても優しい人なんだろうけど、優しさだけでは生きていけないと身を以て知ったのだろう。

将也のお母さんは、見た目はちょっと派手だけど、エグいいじめをしていた子供の親とは思えない、朗らかで優しい人。うちの母親は硝子たちの母と将也の母を足して2で割ったみたいな人だから(普段優しいけど、怒ると般若になる。)、この作品に出てくる母親像にはリアリティがあった。

いじめには巻き込まれたくないけど自分の体面は保ちたい担任教師も、あるあるですね。でも、この教師もそれだけではないところもいい。

 人の心の傷を癒やすのは生半可なことではないけれど、それでも諦めずにいじめてしまった硝子と対話を続ける将也の姿が印象的だった。どうせわかりあえっこないと諦めてしまうのは簡単だ。だけど、少しでもわかりあいたいと望むなら、相手と向き合うことから逃げてはいけない。それは決して簡単なことではないけれど、逃げてしまえば永遠に過去と和解することはできない。言葉で話せないのなら、手話がある。手話でも通じなければ、何度でも向きあえばいい。

『聲の形』は、ぶつかり合いながらも、人と心を通わせるための勇気を与えてくれる作品だ。